昭和47年01月01日 朝の御理解
御理解 第64節
「此方は参ってたずねる所がなかった 氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが 信心して徳を受けて 身しのぎをするようになれ。」
徳を受けて、身しのぎをするように、おかげを受けていけると云うのが信心。それが金光様のご信心。昨夜、除夜祭を終わらせて頂いてから両親の部屋で初めて除夜の鐘を聞きながら、運そばを頂いた。私初めてです。除夜の鐘を聞きながら、運そばを頂いたのは、で、あのう年を送ると云うこんねんそして又、新たな年を迎えると云う、さまざまな行事が色々テレビで まぁ実況放送でございましょう
放送があっとりましたが 明治神宮での年頭参拝の混雑の状態をテレビで放送しておりました。正月の間になんと、おさいせんが一億五せん万、たいしたことですよね。もう除夜の鐘を聴いたもう次の瞬間一番口に。おさいせんをあげようと、もうひしめきあって、おさいせんを上げておる状況が出ておりましたがね。そいでずうっとそのマイクを持って沢山の、ほんとに沢山のお参り人達にこうやってマイクを持っていってから、年頭参拝であなたは何を願われましたかと言うてから、一人ひとり尋ねておりました。
もう一人ひとり、云う事は商売繁盛願いました、こんねん( )の幸せを願いました。もうこれとおんなじような事ばっかりですね。家族中まあ、無事安泰をもう( )さんな、その中から聞いて廻わっとりましたけど。まあ一人ぐらいは世界真の平和と言ったような。平和を祈りますとか、願いますとか、云う人があるだろうとも期待してましたけども、もう自分以外の事は何にも願わない、それが信心だと思っておる。
しかも、それも一年にいっぺん、寝もせずにもうそれこそ( )もう46年から47年に移ったそれでも一番口に神様にその願おう、頼もうと言うようなそれが日本人の信心だと云うふうに私は思わせて頂いたが、まあ大変なことだなあ世界真の平和を祈るとか、願うと言った様な事がどんな事がと理解させる、理解するだけでも大変な事だと思いますね。ほんとに誰でもそれを自分の幸せを願わんものはありませんね。
まぁ商売しておれば商売繁盛願わんものはありません ね、ほんとに年に一回位お参りをさせて頂いた( )寝らんなりお参りをさせて頂いてお願いをしておりゃ、一年中が無事息災と云うような おかげを受けられるとするなら、もうこんな有難いことはありましぇん。ね。けれども結局は、まぁゆうなら気休めである。ゆうべももう2時ぐらいだったでしょうかね。つぎつぎお礼参拝をして来る方達がございますから、もう休ませて頂こうと思いよりましたら。
最後に日田の綾部さん達が一家をあげ、3台の自動車に分乗してお参りして見えられました。それで丁度送り出して休もうと思いましたら、通りの方で止まりましてまあ一家中でしょう、お参りさせて頂いてもいいでしょうかと言うてお参りして来た方達があった。ね、もうとにかくもう朝、その朝その元日の朝です。もうとにかく、あっちこっちもう、とにかく早ようから人の参らん内からもう参り散かしてしまう 参り【笑】散かすわけでしょうね。
さぁどこにも参ったらさぁ丁度合楽金光様のまだ( )きちゃったから もう多く参ってきた( ) でしょう。参っていいでしょうか ハーどうぞ参って下さい。と言うて休ませて頂いたんですけれどもね。そういわば程度のことが信心だと、それがその参って尋ねる所がなかった。誰ぁれも教えてくれる者がいないから、ほんとのこと参ってもそれこそ、まあ正月元日に三社参りとか五社参りとか色々しますわね。
いわゆる参って頼んでくれば、それで心が済むと云うでしょうか、いわゆる自分だけが、まあ参った気分である、そしてお尋ねお願いをして来たつもりである。いわゆる、片便の願いをして的な信心。ただ我が自分の我が事を、まあいっぱい頼んでくる。願ってくると云う、信心そいでならご利益があるかと言うと、いわゆるごりやくと言うのも、ただ気休めのことであろうと こう思うのです。
私くしこの64節を60その前の63節そして次のたとえば65節に見ますと。ね。ここを参って尋ねる所、いわゆる信心の、どう言うものかと言うことを、御教えを頂いて解からしてもらう。遠路の所を参って来るけれども、それが楽しみそして信心して、これは信心しなければ頂けないと、こう受けて、身しのぎが出来るようなおかげを頂く。ね。いわゆる限りない幸せ、限りない幸福、限りない幸せのおかげを頂く、根本的なところから信心を解からしてもらう。
で63節にありますように、『一粒(りゅう)万倍のおかげを頂く』一粒万倍といおうが。一人がおかげを受けたので、千人も万人も、おかげを受けるようになるから。よい手本になるような信心をせよと、そう云う大変なおかげを頂かせて頂く。ことの出けれる信心なんです。金光様のご信心とは、三代金光様のご時代に、ある宗教新聞の新聞記者が、一問一答試みましたことがあった。
金光様にいろいろと伺いをするわけですね。金光様あなたはどう云うご祈念をなさいますか、ご祈念の内容を聞かせて頂きたいと云うてお尋ねされた時に『金光様が仰っておられることは、ね。世界総氏子の身の上安全を願います』と仰った『世界真の平和を願ごうとります』と仰った。ね。それは金光様、あまりもの信心でございますね。具体的に教えて下さいちゅうて、『大は小を叶えますからと仰ったそうです』ね。
いわゆる(気の年??)その明治神宮での( ? )参拝しておられる人達のも、ひとりひとり聞かせて頂いた。その、信心と言うか、願う内容と云うものも、ひとりひとり誰だって隣近所ことでもない。日本のことでもない、ね。もちろん世界平和とか世界総氏子のことなどと云うような人は一人もなかった。ただ自分の家の無事安泰、商売繁盛、ただ私の幸せを願ったと云う人ばっかり、ね。けれども、私どもが信心の稽古をだんだんさしぇて頂いて、ね。
おかげを頂かしてもらい、これは自分の祈りの内容と云うものがも、実感としてです、世の中に難儀な人達がたくさんあると云うても縁がなからなければ出来ましぇんから、その縁を、縁を頼って縁をすがって、自分の周囲の人達が助かって行くことを祈り、また願わなければおられないようになってくる信心がだんだん大きくなってくる。そう云うたとえば祈りの中に、実を言うたら、私くしもあった、例えば繁盛なら繁盛と云うことでもです、ね。例えば、この合楽なら合楽と言う町が、ね、
無事で繁盛するように一生懸命に願ごうたらその合楽の町の中に合楽教会もあるのであり大坪の家もあるんでございますから。ね。私しどもがほんとに信心の稽古をさして頂いてです、すこしでもこれは勿論言葉だけではいけましぇん、ね。言うだけではつまりましぇんから、実感として自分の周囲の事が祈れれるようなおかげを頂いて、段々それが大きな、いうならば世界中のことに至るまで祈らなければおられない( 切実心?? )と言うものが出きてくる育ってくるのが信心だと私しは思うです。
成程自分が助からなければならない、自分がおかげを受けなければならんのですけども、それこそ人を助けて我助けれと言ったような、信心が身について来る、そして事実、人のこと祈っておれば自分が助かることの、も、助かることが出来る、信心体験を頂いて行くと言うこと。ね。ひと(人)ん事なんじゃない、ね、人ん事なんじゃない。それが普通の人達のま、信心の無い人達の考え方でございましょう。
65せつ(節)に例えばそのことを見ますと『日柄方位は見るにおよばん普請作事は使い勝手のよいのが、よい家相じゃと。よい日柄というは、空に雲のないほんぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃと言うように。だんだん教えておられます』私しどもの信心が、ね。とにかく、信心する為にかえって窮屈になると言ったような信心を、聞いたり、それを成したりしてきたのが、私ども日本人の信心( ? )ですけれども、世界中の信心であります。
そこんところを、教祖の神様は、もう自由自在と言うか自由むげと言うか、もう広大無限のおかげの中にです。突入していけれる、慕っていけれる実感を味あわせしていけらく信心を教えられた。もうこれ、ことなんかは、ここえ参って尋ねる所が無かったなら、やっぱりそういう窮屈な ね 普請作事の事ですら ね 実に風流 つまらん迷信にこだわったり窮屈な思いをしなければならない。またそう云う信心ですらがあった。こりゃ、まず、どんな宗教でも、その窮屈にしてしまっておっですね。
かえって、そう云う所をです、天地の道理から、いうならば(割り出された ? )と言うか、天地の道理に基づいてそのような事を参ってくる信者氏子にお取次ぎ、お説きになった。ほんとに無駄な信心と言うか、生活の中にどのように無駄があったかと言うことをまず解からして頂く ここえ参って尋ねることが出来る、申しを受けることが出来る、片ぎんの願い捨てではない、願っただけではない。また帰りに、そのご返事を頂いて帰ることが出来るね。
その神様のご返事の中にです、こう言う考え方ではおかげが受けられないぞと。例えばなるほど人間自分の幸せ、幸福を願わんものはおらんけれども。例えば昨日の明治神宮での年頭参拝で、たくさんの人が答えておったように、商売繁盛願いましたね。身の上安全願いましたね。この一年どうでも幸せになることを願いましたと。ね。そう云う例えば事では おかげにゃならんぞと 信心がないから そりゃしかたがない けども信心をさして頂いて ここでわからしぇて頂くことは。
そう言うことでは無い 私どもがおかげを受けてそのおかげを いわば 一粒の万倍とも広げて行くと言うこと。ね。いわゆる、世界真の平和、世界総氏子の、身の上あん安全といったような、祈りと言うものが願いと言うものが、ね。だんだん、なされるようになって行くのが信心だ、だからこそ一粒万倍のおかげが受けられるのだと。ね。信心が解かると言うこと、いわゆる日柄方位は見るにおよばぬと、日柄方位のことだけじゃありません、ね。いわゆる間違った考え方、信心さして頂いておって。
いわゆる、間違った考え方で信心をしとる。私は、真の信心と言うことを申しますけども、私はほんとに、お道の信心をおいて、ほかに真の信心は無いと思いますね。真の信心のようにあるです。教えを頂きよると。けれども、いよいよん所に、あっこれは真の信心じゃないなと思いあたる所がたくさんある。教えん中にも。またはその教えの根本の( ? )のところを思てもです、ははぁこれは真の信心と言う言葉は金光教の信心の為にあるもの、ように、最近思います。ね。
けれどもその真の信心であり、真の信心をこうやって教えて頂いておってもね。それを、そうと(芸名 ?)に現さなかったら家業の上に現さなかったら。いかに金光様のご信心をしとっても、真の信心な道におりながら、真の道を踏まなかったらです。やはり五十歩百歩おんなじ事なんです。ね。ですから私しどもが、本気でです、真の信心を目指さしてもらう、いわゆる真の信心を教えてもらうのですから、真の道を私くしどもが歩かしてもらうと言う生き方にならなければ。
いかになら金光教が真の信心だと いばったところでおんなしこと。これは特に私が合楽の場合、それを思うのですけどもね。ここへ参って尋ねるところがなかったと、言っておられるように、合楽をと言うなら信心のことを、微にいり細にわたって真の信心を解く所は無かろう思います。昨日、除夜祭を終わってから、ま、装束を取りながら( )と二人で話したとこですけども。
私しが挨拶がわりに、ひとくちお話さして頂いた事を若先生がその今日、親先生がお話しなったこと、あのことが僕の脳で矛盾を感じておったことが解かったと言う様な事を話しております。ね。教祖の『み教えに勢を揃えて信心をせよ』と、仰るかと思うと、『一人密かに信心しぇよ』と言う み教えがありますよね( ? )今日は親先生の挨拶を聞きよって、そこん所が解からして頂いたと思うと、こう言うのです。ね。ひとり密かに信心しぇよと 勢を揃えて信心しぇよと思うようにしとりますね。
(ちょっと考えたら?)けれども私し、昨日挨拶お話しを申しました中にまあ、5分か10分掛かった(する ? )とも、ね。昨夜私がいわゆるこんねんですね、いわゆる昭和47年の、私しの信心の方法を皆さんに聞いて頂いた。ね。それをその聞きながら若先生が思うたことは ははぁ( ? )の信心の抱負と言うのと 願いと言うのは別だと言うこと。ね。私しがきのうの朝の御理解を皆さんに聞いて頂いた。特に普通の信心修行、黒不動と行ったような意味で聞いてもらい。
それから『新たな修行を赤不動と言う意味で、おしらせを頂いた』ことを聞いて頂いた。不動と言うのは、信心さして頂いた、愈々確固たる信心不動の信念が、段々つちかわれてくる。それが身についてくると言うこと、それ上完璧なものにする所にです。例えば私し信心で言うならば、今まででけていなかった所の赤不動的な信心。『ご心眼にそれこそぐれんの炎のなかにですね このお不動さまが、こう座ってござる』と言うような、お知らせを頂いて、あの、赤不動と言う御理解になったわけです。
皆さんに聞いてもらって、そうさほどにも、私もそう言う修行もして来たと私しは、と云うふうに、おもておったんで。だんだん解からせて( ? )従っていやいやこれはもっともっとおかげを頂かなければならないなぁと。思っておって、昨日2時のご祈念を終わって。茶の間に下がりましたら丁度テレビが、まつけっぱなし誰も見てみませんでした。その画面にです私が行ったらすぐその画面に出たのがね。歌舞伎役者の尾上松禄さんが、なんか、舞踊をやっておるのが出てました。
その舞踊がですね丁度そのお坊さんの格好をしてですね、ぐれんの炎の中に、こやって合掌しておる姿が出て来たんです。私しゃびっくりしました。はらぁ今朝頂いた御理解はこれだったと、こう思うた。それでこれは、ただごとではないなぁと思うてですね、朝頂いたことを又今実際テレビのうえで見るんですからね。これは何か私しに求めておられる、教えて下さろうとしておるなあと言うことを。
これは人じゃない私し自身が、いわば今年の信心の法をそこに、ま、置いておると言う話を、昨日皆さんに聞いてもらったのですね。ね。ですから、私がこう言う信心をするから、皆さんもこれに右へ習えを、しなさいと言うことじゃ無いと言うことです。いわゆる、そこんところを練習するのに聞きながら一人密か信心すると言うことは、そう言う事だなと解かった(とこいるんです?)ふんほんなごと、そげんなと私も、私の席言ってから、解からせて頂いたようなわけでした。
ひとり密かに信心する、と言うことは、自分の信心抱負に向かって精進して行くこと。自分の信心修行にです自分なりの修行に取り組んでいくことなんだ。これは人のこれは修行しなさいと、言うものでは無いと言うこと、そして願いと言うのはです。ね。例えて言うならば、こんねん、たとえば皆さんの願いのなかにいよいよ合楽もね、開教5年の式年祭をこの10月には奉仕致します。ことになるその為に記念事業が思い立たれて、西脇殿のご造営が取り進められると言うことに決定し。ね。
いわゆる、起工式までももう終わったことになったわけですからね。願いと言う事はです。勢を揃えてでなからなければならないと言う事ですね。願いと言う事は、だから合楽信奉者の順信奉者がおって一丸になって。ね。10月に行われるとことろの記念祭に向かっていよいよ信心の稽古をさして頂こう、いわゆる、その、記念事業であるところの、ご造営にむかって、ひとつ本気で、ね。
勢を揃えたうって一丸になっての信心をさして頂こうと言うことになってくるけれども、その信心の進め方においてはです、ひとりひとり違って良い。はぁそこんところを教祖様は ひとり密かに信心せよと仰せられ、または、勢を揃えて信心しぇよと言うことは、ひとっつも矛盾では無いなと言うことを、ま、若先生は、きのう、私の少しばかりのお話しのなかから。それを解からして頂いたと、こう言っとります。ね。
たとえば、そう言う意味のことがです、ここでは、ね、いよいよそれを具体的に、ね。微に入り細にわたって、も、それこそ(濡れて?)こぼすようにして、にちにち研ぎ聞かされておる。尋ねなくても教えられておると言うことなんです。尋ねれば、教えも頂いて解からせて頂く事も出来ると言う。いわば、ところでお互いが信心の稽古をさして頂くんでございますから。お互いの信心がいよいよ育たさしてもらい、自分自身に徳を受けて、身しのぎの、出来るような信心を頂いて。
しかもその信心が自分の周囲に広がって行く一粒万倍のおかげが( ? )行くほどしのおかげになって行くと言うことをです、こんねん(今年)は和賀心時代を創ると言ったようなことになって来た。かたや明治神宮で、昨日のその実況放送を聞かせて頂いてです。ね。も殆どの人がです、信心とはもう人を押しのけても自分(ぐちに?)お賽銭を入れるとの事のようにもとにかく元日に参って、(計一年の?)( ? )狙ってくるのが信心。しかもそれはです。ね。それがご利益があるとか。
ないとかそりゃま、そんなことでご利益がある位なら、大変な結構なことですけども。ほんの気休め的な信心しか日本人限らんのですけども、しておるとしか言えないような程度のものである。そこに私どもがその中の、ね。とにかく千人万人の中にたった一人、私が( ? )信心をさせて頂くと言うことになればです。それが千人万人もついてくる程しのおかげになって行くと言うことがです。身に徳を受けて身しのぎの、出来るような信心にならないと出来ないと思うのです。ね。
信心の真の信心の、ま、根本的とこ。なるほどこれだけでもお道の信心が根本的に、真の信心の、と言われる何を( ? )なと言うことをです。たとえば、64節の次であります65節の日柄方位は見るにおよばんと。たとえば、いわゆる、いつもが( ? )だと言う頂き方ですね。65節を見ると、ね、自由自在自由無碍のおかげの頂けれる根本のところを教祖様は教えて下さってあります。
そう言う信心を基礎土台にしてです、ね、折角遠路のところを参って来るのであるから、信心して徳を受けて、身しのぎをすると言うようになれと、言うようなおかげを頂いて一粒万倍の、ね。おかげを頂きたいまた一粒万倍のおかげを 一人がおかげを受けた為に、千人も万人もの者がおかげを頂いていくと言う、そう云う信心の世界が広まっていくと、言うことを願いとしての信心をさして頂けねばならんと思うです。
どうぞ。